四苦
昨年大失敗したブログ記事をこちらに上げ直しました。縦書きに拘らなくても別に良いんだけど、縦書きの方がなんか銀高っぽいなっていうクソみたいな拘りがあって…。まさかあんな状態になるとは思わなかったんです、上げた直後を見た方、本当に申し訳ありませんでした…。
※昨年作った特設ページの内容をそのままコピペしてます。

良い夫婦の日に特設ページ作ってみました。忙しいのに馬鹿野郎としか言いようがない...。内容は新しいものではなくて、鍵ブログで書き続けてる気持ち悪い銀高語りを一部書き出しています。
四苦
四苦というのはある時代小説読んでて初めて知った言葉でして、仏教でのこの世の様々な苦として「生・老・病・死」があり、その他に
- 愛別離苦(あいべつりく 愛しい者と別れなければならない苦)
- 怨憎会苦(おんぞうえく 憎しみ恨みと出会う苦)
- 求不得苦(ぐふとくく 求めて得られない苦)
- 五蘊盛苦(ごうんじょうく 人の身体を作っている五つのものが盛んに欲望を燃やす苦)
というのがあるというものです。
愛別離苦、攘夷戦争後の二人ですよね。だって絶対絶対離れたくて離れたわけではないもの。私の中では、高杉から去っていたイメージ(銀時は仲間と離れるつもりはなかったと思う)。銀時から姿を消したというのもまぁ、あるとは思うんですが、ここは話すと長くなるので割愛させてください。言葉で表すのがとても難しい。
怨憎会苦、憎しみや恨みの感情を覚える。当然ですが松陽がいてこそですよ。松陽の件があったからこそこの苦しみと出会うんです。でもお互いの存在がそれを増幅させているような気がします。確かに師に対する思い入れは大きいと思うけど、それ以上に高杉は銀時の大切な人を銀時自身の手で殺させてしまったことがショックだったんですよね。将軍暗殺篇前までは、イマイチ高杉のことがよくわからなかった(すみません)。でもあの話で全て繋がったように啓けたんですよ。気持ちいい位に。勿論初期の高杉が好きな方は納得いかない所も多々あるだろうし、後付けの感も無くはないですが。
銀時も恨み憎む気持ちが無かったとは言えない。あの人は割と怒りの表現がストレートだと思うんだけど、この事に関しては分かり難い。何がそこまでさせるのかと考えれば、高杉と桂のことを考えて...ですよね。松陽の最期の言葉(あの時はそうだった)もあるでしょうけど、松陽はあそこで終わってもいいと考えて、それを銀時が受け入れたということかなと。銀時はだから何も恨めないし憎めない...。もし何かを憎むなら、自分自身の弱さのみと言う...。ただ、その姿を高杉や桂に見せるわけにはいかないじゃないですか。ただひっそり涙を流すだけ。それを高杉は見ちゃった...。高杉がそれを知っているというのがね、凄いことでしょ。
銀時に涙を流させてしまったのが、自分の弱さのせいだと思ってもおかしくない状況でしたよね。勿論天人や幕府も憎んだと思うけども。
自分だけの怒りであったら、黒い獣がのたうち回るなんて言い回しするのか?というのが最初の疑問だったことを思い出します。当然初期の情報だけだったら、三郎含め攘夷戦争でなくなった人達のことを言ってるともとれるわけですが。まるで別人格のように言うものだから...。
求不得苦。求めても得られないもの、それは銀時と高杉共通で過去でしょうね...。過去という事は、自然とあの頃の関係ってなりますよね。なんとなくですが、今の、二年後銀魂の展開は江戸のためというよりは銀時のためにあるような。ずっと一緒にいたかった幼馴染が側にいて、師を取り戻せるかもしれないということが...。あの高杉と共闘する銀時の表情!なんか本当に嬉しそうに見えるんですが。求めても得られないと諦めていたものが、手に入ったようじゃないですか。(苦しみの話はどうした)
五蘊盛苦、将軍暗殺篇での銀時と高杉の戦い、もどかしさを感じました。確かに子供の頃から勝負という形でぶつかりあってきた二人ですけど、あの戦いは違いますよね。ああやって確かめ合うしか出来ないのかと...。後に高杉は、あれをまた次出会うための、勝敗のつかなかった勝負の一つとしましたが...。
なんていうか、そういうところがまるで夫婦みたいだなと。すみません、都合の良いような解釈しちゃって。こっちは殺し合いみたいな夫婦喧嘩見て、これは離婚かもしれんとヒヤヒヤしたのに、次の日普通に朝ごはん一緒に食べてるみたいな、次の日普通におはようって言ってきたみたいな感じで驚いたんだけど。
無理矢理、四苦と絡めて銀高の話をしてみました。今はこう言ってるけどまた後で考え方変わるかもしれないです。現に銀高ブログの過去記事読んでみると、今と違う事言ってる~って感じですから。自分の気分だったり、原作読んでまた新たに発見したことがあったり、改めて気付く事もあったり。
なんでわざわざこんな面倒な、二人の苦しみの事なんか考えるの、考えなくてもいいよねって思わなくもないけど、そういうところもひっくるめて考えるからこそ、何気ない二人が並ぶ姿も幸福な姿も全てが良いと思えるなぁって。二人の為じゃない、全部自分の為です。私が勝手に好きになって勝手に心配したいだけです。
孤島に鬼 事戸渡し
ピクシブ百科事典の銀高のページでも言及されている、五十七巻の銀時と高杉のやりとり(正確には銀時が一方的に言っていること)が古事記のイザナギ、イザナミに似ているという話、私も読んだ時気になった事です。
単純に万事屋の万をかけただけなので、偶然と言えば偶然のようにも感じましたが、その後のヒノカグツチ登場などの展開を思うと偶然とも思えなく...。いや、偶然か...。...偶然か??
うろ覚え(調べないのかよ)での概要ですが、イザナギとイザナミは国生み・国造りの神です。イザナミはヒノカグツチ(火の神)を産んた事で死んでしまい、黄泉の国の者となります。妻恋しいイザナギは、住むところが分かれた妻イザナミを迎えに黄泉の国へと行きます。イザナミはもっと早くきてくれればよかったのに、黄泉の食べ物を食べてしまったからそう簡単には戻ることが出来ないとしながらも黄泉の神と話をするから、絶対に姿を見ないでくれと言います。気になったイザナギは、櫛に火を灯し暗闇を照らすとそこには蛆がたかった妻の姿が...。慌てて逃げだしたイザナギを、怒ったイザナミが軍勢を放ちながら自らもおいかけるという話です。
有名な離婚の話です。逃げるイザナギに追いついたイザナミが「貴方の国の人を一日千人殺しますよ」と言い、それに対しイザナギは「ならば自分は産屋を一日千五百建てよう」と返すのです。
無理矢理銀高をこの夫婦に当てはめるならば、高杉が銀時に対して執拗に「国」と言う所は国生み国造りを意識し、そして黄泉の食べ物とは朧の骨、虚の血ではないかと考えてしまいます。それからイザナミは別離の後二つの名で呼ばれることになりますが、まず黄泉を治める神となったことで黄泉津大神、そして、イザナギに追い付いたことで道敷大神(チシキノオホカミ)とも呼ばれるようになったと...。これが六十四巻第五百七十四訓「道」...とは関係ないですね、はい。
分かってます、分かってますよ、こじつけようと思ったらいくらでも出来ますからね。太い柱を二人で回り出したらもう何も言う事ない。そんなことが起こったらもう自分の脳じゃなくてsrt先生の脳を疑うことにします(暴言すみません...)。
折角の良い夫婦の日なのに良い夫婦っぽい話を全然してないですね、このイザナギイザナミの別離のシーンなんですけど、この時二人はお互いを呼ぶ時、最後まで「愛しき(うつくしき)我が妻」「愛しき(うつくしき)我が夫」と呼んでいます。住む場所も役割も大きく道を違えた二人ではありますが、変わらないものがあるんでしょうね...。なんだろう、愛って言っていいのかな...。
思い付いたことダラダラと語ってしまいました。まとまってなくて申し訳ないです。もう少し幸せな銀高の話をした方が良かったとは思う、でもこういうのも材料に...糧にするんだという気持ちを込めて。
<2018年11月22日良い夫婦の日によせて>